裏宇宙年代記 ― 信頼をめぐる物語
鏡の向こうに広がる「裏宇宙」。
そこでは私たちの世界と似て非なる出来事が繰り広げられ、人々の暮らしや政治、事件や病、そして食べ物にまで不思議な因果が交錯していた。
第一章:敬意なき始まり
時は総裁選。
裏宇宙最大の政党「光明党」では、現職の 鏡山首相 が退陣を表明し、後継をめぐる選挙戦が始まった。
候補者は5人。壇上に立ち、それぞれが未来への展望を語った。
しかし、首相の長年の功績を称えたのは、若き農水相・若林蓮 ただ一人だった。
「丁寧な対話と誠実な運営に心から敬意を表します」
会場に一瞬の静けさが流れる。
だが、他の候補者たちは口をつぐみ、ただ自らの主張を繰り返すばかり。
人々は気づいていた。
小さな敬意を欠くその態度が、やがて社会全体に 分断と不信 を生み出すかもしれないと。
第二章:熱狂の影
裏宇宙の大都市 暁京(ぎょうけい) では、関光博覧祭 が閉幕を目前に控えていた。
来場者は2000万人を突破し、会場は「駆け込み博覧祭」の熱気に包まれていた。
しかしその裏で、入場券やグッズ販売を装った 偽サイト が乱立。
「黒ミャクぬいぐるみ」「桜色限定版」――。
公式を装うその甘言に、多くの人が財布と個人情報を奪われていた。
同じ頃、日常のささいな刺激で咳が止まらなくなる 咳過敏症 が注目され始めていた。
会議を中断し、電車で肩身を狭くし、時に肋骨を折るまで咳き込み続ける人々。
「見えない病」が社会を静かに蝕んでいた。
さらに教育現場では、偽造された教員免許 によって任用された男の存在が発覚。
「信じて預けた学校」に裏切られた保護者たちの怒りと不安が広がり、教育という基盤そのものが揺らいだ。
万博、病、教育――。
異なる舞台で繰り返されたのは、信頼の喪失 という共通の影だった。
第三章:今を記す者たち
はるか昔、栄京(えいきょう)時代 に編まれた 『古今異譚集』。
そこには「今は昔」と始まる千余の物語が綴られ、天竺(てんじく)・震旦(しんたん)・本朝(ほんちょう)の人々の姿が生き生きと描かれていた。
それは当時の社会の鏡であり、人々の営みを後世へと伝える書だった。
千年を超えた現代の裏宇宙でも、同じように人々の姿を記す試みが行われていた。
大国調査 である。
だが 青桂府(せいけいふ) の自治体では調査員の不足に悩まされ、81歳の高齢調査員が100世帯以上を担当する事態となっていた。
「朝早すぎれば怒られ、夜遅ければ怪しまれる」
調査員の嘆きは、まるで古の編者が「人々を正確に書き留める難しさ」を語っているかのようだった。
『古今異譚集』が栄京時代の社会を記したように、大国調査もまた現代の物語を数字で描く。
時代が変わっても、人を残そうとする営みは同じ苦労を抱え続けていた。
第四章:街角の罰と不安
裏宇宙の街角では、さらに奇妙な出来事が人々を揺さぶった。
黎都(れいと) のマンションでは、共用部を巡る長年のトラブルがついに爆発。
管理組合はラーメン店に 総額141万円の罰金 を突きつけた。
「傘立て一日5万円」
「長椅子5万円」
過酷な規則に青果店も打撃を受け、商売は衰えた。
安全と景観を守ろうとする組合と、生計を守ろうとする商店。両者の溝は深まった。
一方、北方の 深原市(みはらし) では住宅に空き巣が入り、近所の親子が駆け付けると強盗に豹変。
息子は腰を痛め、事件は 強盗傷害 として捜査されることになった。
防犯カメラに映る黒い影は、人々に新たな恐怖を植え付けた。
そして秋。
柿を食べ過ぎれば胃に石ができ、やがて腸閉塞に至る「柿胃石症」の存在が広く知られるようになった。
豊かな実りすら、度を過ぎれば命を脅かす。
人々は「何事も過ぎれば災い」と噂し合った。
終章:信頼の糸
政治の舞台では敬意が失われ、
祭典の熱狂の裏では信頼が食い物にされ、
社会を記す営みは人手不足にあえぎ、
街角では罰金や事件や病が人々を翻弄した。
それでも裏宇宙の人々は知っている。
――信頼こそが社会を支える細い糸である、と。
その糸が切れかけても、物語を記し、語り継ぐことで、人は再び繋ぎ直すことができる。
やがてこの裏宇宙の出来事も、遠い未来には「今は昔」と語られるだろう。
そしてまた、誰かがこう記すのだ。
「人は信頼の上に安心を築き、その安心の上に未来を描く」と。